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2008-07-25

鉄瓶横町-飛行機見物がレジャーだった頃

 航空公園南側の手押し信号、熊野神社東の信号から浦所街道(国道463号線)を渡り、旭町交差点を抜ける道は、高校時代の筆者の通学路であった。
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 千歳橋で東川を渡り、古い長屋門の前を通り過ぎ、大きな農家が続く坂を登ると、すでに鉄筋コンクリート化されていた昌平寺の前に出る。堂々たる長屋門といい、東川沿いの風情といい、歴史が折り重なったようなこの道が、私は好きだった。

 その長屋門のあるお宅が、10年も前から能面美術館となっていたのも知らなかったが、この道がその昔「鉄瓶横町」と呼ばれていたなどとは、もっと知らなかった。
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 その話は、能面美術館館長で能面作家の福山元誠氏からうかがった。福山氏によると、現在の航空公園や米軍通信基地が「所沢飛行場」と呼ばれていた頃、飛行演習の日ともなれば、この道は所沢駅から飛行場へ向かう人々で賑わったという。熊野神社東の信号あたりに教育隊正門があったからだ。そんな飛行機見物客に、長屋門宅の家人が鉄瓶でお茶を沸かし振る舞ったのが、そのいわれだそうだ。

 日本初の飛行場として所沢飛行場が開設されたのが1911年(明治44年)、開設と同時にアンリーファルマン機による最初の飛行が行われているので、長屋門宅の家人が鉄瓶でお茶を沸かし振る舞ったのも、この頃のことであろう。まだ飛行機そのものが珍しかった時代ゆえ、飛行機見物が物見遊山、つまりひとつのレジャーとして成立していたのだろう。

 『所沢陸軍飛行場史』(小島敬司著 所沢図書館所蔵)には、こんな記述がある。

町の人人は勿論、まだ暗いうち遠くから提灯を持って飛行演習を見物にくる人で賑わい、見物人を目当てに茶店も出、山田呉服店は紅白幕を張った桟敷に得意客を招待した。臨時軍用気球研究会(※所沢飛行場に試験場があった)でも気象観測所の屋上に旗を立てて、「演習なし」(白)、「準備中」(赤白)、「飛行」(赤)を知らせた

 また、サイト「所沢飛行場物語」にも、以下の記述がある。このサイトには、見物の様子を描いた絵画や飛行機拝観券も掲載されている。

所沢飛行場ができ、飛行機や飛行船が飛びはじめると、飛行場には連日多くの見物人がやってくる様になりました。近在の人はもちろん、なかには、はるばる東京から夜通し歩いて来る人もいました。見物人のために食べ物屋やみやげ物を売る店も並び、桟敷席をつくり、一人10銭で見物させても、満員のお客さんでにぎわったそうです

 同じく「所沢飛行場物語」のサイトにには、「所沢飛行場開設時の飛行訓練の様子を載せた新聞記事」が紹介されている。

見物人は汽車路より畑より道路より馳せ集まる。東京より来りて見物せんと欲するものは、前日午後所沢の前駅東村山迄来りて1泊し、朝5時迄に所沢に来るを良策とす。所沢の宿舎は殆ど満員なれば、所沢に泊らんとすれば普通の民家に頼むべし

 前日に東村山まで来て一泊とは、いやはや立派なレジャーである。当時、生糸や織物で栄えた所沢に多数あったはずの宿屋が満員だったとは、どれだけの人出だったことか。鉄瓶横町が見物客で賑わったのもうなずける。

 時代は下って、前年に日中戦争も始まっていた1938年(昭和13年)、さすがに飛行機見物も下火になったであろう頃、今度は鉄瓶横町に軍靴の音が響くようになる。鉄瓶横町から旭町交差点をわたった先の一方通行の踏切のあたりに、飛行場への通勤駅として、すでに1915年(大正4年)には営業開始していた武蔵野鉄道(現西武池袋線)に旧東所沢駅(当初は松井駅。現在の武蔵野線東所沢駅とは別)が開業したからだ。
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 観光の道から、軍靴の道へ。いまは抜け道として、すれ違いもスレスレにクルマが行き交うこの道には、やはり歴史が折り重なっていた。

■思い出で綴る故郷・所沢散歩
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