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2008-12-14

東川源流を辿る旅⑤-所澤神明社~上新井調整池

上新井地区

 夏の盛りにはじめたこの源流を辿る旅も、気付けばすでに初冬。前回からすでに3か月も経ってしまった。

 さて、深井醤油の先、旧市役所の突き当たりを右に曲がったら、最初の角を旧市役所の裏手へ回り込むように左へ。40mも進むと、右手に所澤神明社の参道が現れる(33)。
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 この神社の縁起は、残念ながら文政9年(1826年)の火事で社殿が消失するなどして記録が失われたため、建立時期など正確なことはわからない。しかし、鳥居脇をはじめとして、優に周囲3mを越す巨木が林立するさまは、十分に深い歴史を感じさせる。

 その巨木のある鳥居の脇、少し奥まったところに、「人形殿」というちょっと珍しい社がある。ここは人形を供養するための社で、納められた人形は、毎年6月第1日曜日に境内で行われる「人形供養祭」でお焚き上げされる。「幼い子どもたちの身代わりとなって多くの厄災を背負っている」(神明社)という人形を鎮魂する祭事だ。
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 意外に知られていないが、所沢は「人形の街」でもある。その始まりは江戸時代中期、農閑期の副業としてかき絵、はり絵の羽子板が奨励されたことから。その後、雛職人が押絵の技術を学び、羽子板作りが始まったと伝えられている。
 また、江戸末期の嘉永2年(1849年)には、人形作りも3軒の業者によって始められ、主に着付けを得意として発展。現在でも、羽子板では春日部とともに県内有数の生産地で、人形でも岩槻・鴻巣などに次ぐという。
 そうしたことから、人形供養祭は昭和50年代、所沢人形協会の主催ではじめられ、いまでは関東一円から膨大な数の人形が集まるそうだ。

 さらに先に進んで、突き当たった県道を右に行くと、焼きだんごの武蔵屋がある(34)。
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 所沢の名物と言えば焼きだんご。「焼きだんごなんてどこにでもあるじゃないか」という向きには、ぜひ一度味わって頂きたい。醤油と酒のタレを塗って焼き上げただけの単純なものだが、強い腰とズッシリ感が焦げたタレの香ばしさと合わさって、独特の味を生み出している。

武蔵野に 鷹狩りをせし 道潅の 歌宴を偲ぶ 焼きだんごかな  惣五郎

 この武蔵屋で頂いた由来書きによると、康正元年(1455年)、鷹狩りの帰途に所沢付近で薄暮となり、仲秋の名月に詩情を誘われて歌宴をはった太田道灌(最初に江戸城を築城した室町時代の武将)に、土着の名族某がだんごを焼き、自製の醤油をつけて献じたことがはじまりという。

 砂川いくお元市議のホームページでは、郷土史研究家の越坂部三郎さんの話として「水利が悪い所沢には水田がなく、享保年間(1720年頃)に陸稲(おかぼ)作りが始まった。インディカ米の陸稲は硬質で、けっして美味ではなく、鶏でさえも喜ばないと言われた代物だった。そこで『粉にでもして、焼きだんごにすれば・・・』と、文久年代(1860年頃)には、だんご作りもかなり盛んになっていたようだ。石臼を使うと自然と粗引きとなる。これが歯ごたえや甘味を醸し出して所沢の味が生れた」と紹介している。ここでは、明治時代に入ると「焼きだんご組合」ができ、規格の統一が図られたという話まで紹介されているので、ぜひご覧頂きたい。

 そんな焼きだんごも、いまでは市街には数軒が残るのみ。それでも、武蔵屋の女将さんは「おばあさんの味を守っていかなきゃ」と気丈に語っていた。
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 県道を南下すると、開明橋で再び東川と出会う(35)。

 再開発工事が進むこの橋のたもとにはかつて、これも所沢名物のひとつである酒まんじゅうの店、峰の酒まんじゅう本舗があったのだが、いまは影も形もない。武蔵屋の女将さんによると、旦那さんが亡くなった後、永らくおばあさんがひとりで切り盛りしていたのだが、通いでやっていたこともあり、歳には逆らえず、止めてしまったという。あのかわいいおばあさんは、いまも元気だろうか。
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 開明橋を渡らず、手前を右に折れると、新光寺に突き当たる(36)。
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 川はここで新光寺の下を通る暗きょとなる。「思い出で綴る故郷・所沢散歩」によると、以前、川は寺の北側を迂回していたが、たびたび大雨で溢れていたため、昭和7年に寺の南側を真っ直ぐ流れる工事が行われたそうだ。川は、寺の裏手で再び姿を現す。
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 この新光寺も新田義貞と縁があり、元弘3年(1333年)、鎌倉攻めの戦勝祈願に立ち寄ったと伝えられる。また、その帰途には再び立ち寄り、黒塗りの乗鞍を奉納したとか。それと関係があるかどうかはわからないが、地元では昔から「馬の町」の「観音様」と呼ばれ、当時の貨物や商品の運搬に活躍した馬の健康と交通安全を祈願したお祭りが毎年2月18日に開催されていたともいう。いずれにせよ、その門前から旧鎌倉街道が南に延びていることからも、交通の要所であったことがわかる。
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 この寺に、面白い伝説が残されている。

 その昔、寺には毎晩のように遊びに来るたいへん話好きのタヌキがいたそうな。囲炉裏にあたりながら世間話をして、なかなか帰らないので、和尚さんは大変迷惑していた。ある晩、とうとうタヌキは居眠りを始めたので、ついに堪忍袋の緒が切れた和尚さんは、タヌキの股に囲炉裏の中の焼け石を放り込んだそうな。びっくりしたタヌキは外へ飛び出し、「あっちいちいの新光寺、二度とくまい新光寺」と言いながら逃げて行ったとさ。(内理弘著『所沢の歴史と地理』所沢図書館所蔵)

 話好きなだけで悪さもしていないのに、ちょっとかわいそうな気もするが、何ともかわいいお話である。

 新光寺は通り抜けられないので、門前を左へ曲がり、一本目を右へ。この道を進んだ先、クランク状の角を過ぎると、再び川沿いに出る。視界が開けたと思うと、大きな水門が目に飛び込んでくる。これが「③-川端橋~東新井庚申塔」で紹介した地下河川への引き込み口というわけだ(37)。
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 その水門の脇が、弘法の湯という銭湯の裏になっている。訪れたときは、ちょうど湯を沸かしている最中で、積み上げられた木材をさかんにくべているご主人の姿があった。空に突き刺す煙突からも、もうもうと煙が上がっていた。
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 そして、さらにその先、国道463号線を渡ったところに、弘法の三ッ井戸がある。先ほどの銭湯の名前も、この井戸にちなんだものだ(38)。
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 傍らの縁起書きによると、諸国巡礼の途中、民家に水を求めた弘法大師が、遠くまで水を汲みに行く婦人の姿を見て難儀を思い、杖で三か所に印を付け、水の出る場所を教えたことから、この名が付いたという。筆の達人として知られる弘法大師こと空海だが、実は水にまつわる伝説も多く、こうした「弘法井戸」や「弘法水」は全国津々浦々、実に1600か所以上もあるそうだ。

 三ッ井戸は東川沿いにほぼ50m間隔で掘られ、現存する井戸は東端のもの。すぐ先の西友の裏口前の小堂では、弘法大師を祀っている。
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 三ッ井戸から先は、しばらく静かな住宅街の中をうららかに流れる川沿いに進むことができる。
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 しばらく進むと、西武池袋線と交差する。その傍らに、小さなトンネルがしつらえてあるが、クルマは天井もすれすれ、歩行者と行き交うことすら不可能という代物だ(39)。
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 その先の六社神社には、参道脇に小さな児童遊園地があるが、ここも、ひなびた山里の境内という感じで、ちょっとした旅情が味わえる。落ち葉がきれいに掃き集められているところを見ると、地域の住民に大切にされていることがわかる。
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 参道に架かる橋を渡り、次の橋まで進むと、たもとに小さな石塔が立っているのに気付く。「石橋供養塔」の文字が刻まれている。『郷土を探る 路傍の石をたずねて(平成版)』(所沢図書館所蔵)によると、橋は寛政13年(1801年)、当時の上新井村の有力者だった森田清左衛門が寄付したもので、その開通記念に建てられたものだという(40)。
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 川はしばらく、のどかな農村地帯の中を流れる。上新井の信号から来る二車線道路と交差する先で、道はいったん川沿いを離れるが、コの字に住宅などを迂回すると、再び西裏橋から川沿いを行くことができる。

 この辺りは、まだ未造成の地区で、川端にはまだ畑も広がり、コンクリートの護岸もなく、山里のせせらぎといった風情が楽しめる(41)。
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 少し先に進むと、新所沢駅西口から真っ直ぐ国道463号線バイパスまでを結ぶ新道が、大六天橋で川と交差する。道の向こう側には上新井調整池が大きな口を開けている(42)。
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 この調整池といい、地下河川といい、これだけ水量のない川に、それほどの治水施設が必要なのか、疑問が湧いてくる。

 調整池の脇に遊歩道があり、さらに川沿いを進むことができる。
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■焼きだんごマップ
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2008-09-06

東川源流を辿る旅④-新東橋~深井醤油

有楽町地区

 新東橋を過ぎてすぐ、和歌(短歌)の墨書が立てられていた(21)。
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山のまに雪は降りつつしかすがに川楊は萌えにけるかも

 誰が何のために立てたのかわからないが、きっと、この方の東川への愛を表現したものなのだろう。ちょっと季節外れだが。

 さて、松井橋から先は、石積みの護岸と濃い緑にグッと風情が高まる。川辺に歴史が刻まれているようで、どこか地方の城下町にでも迷い込んだ感じだ(22)。
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 またこの地域は、春は桜の名所としても名高い。川を覆うように咲き乱れる桜が、いっそう風情を高めて、ちょっとした旅行気分も味わえる。昼間もよいが、淡い提灯の灯りに浮かび上がる夜の桜もお薦めだ。

 千歳橋を渡ると、堂々たる長屋門の能面美術館がある。

 少し進むと、熊野神社と西新井不動尊が川沿いに並んでいる(23)。縁起書きによると、熊野神社の建立は1459年。現在でも、境内には元禄年間(1688~1703)に建てられた旧本殿が保存されている。一方の西新井不動尊の建立も江戸初期と古く、明治初期には堂内に寺子屋式の塾が開かれ、地域の子どもに読み書き算盤を教えていたという。
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 ちょっとお腹が空いたという向きは、少しコースを逸れ、国道463号線沿いの伝家でラーメンでもすするとよい。いわゆる横浜家系ラーメンの濃厚なスープと腰のある麺に人気も高く、大勢が航空公園に遊びに来るよく晴れた休日などは、昼時には行列もできる。
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 突然桜並木の緑のトンネルが途切れ、いきなり視界が広がると、所沢市街の入口に立つ(24)。航空公園から市街へ向かう飛行機新道が、ここでは上り下りで川の両側に分かれ、その上を西武新宿線が横断している。
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 川の北側には、かつて御幸町駅という小さな駅があったという。『むかしのところざわ百景』(峯岸正雄著、所沢図書館所蔵)によると、戦後の早い時期、まだ所沢飛行場が米軍基地だった頃、駅に登る階段で米兵の帰りを待つオンリーさんの姿を見かけたそうだ。

 西武新宿線をくぐってすぐ、古めかしいが、どことなくモダンな雰囲気を漂わせる旭橋と出会う(25)。橋には、「昭和五年三月竣工」と彫られた銅板も埋め込まれている。
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 「思い出で綴る故郷・所沢散歩」によると、かつては「巨大な赤御影石には画期的な彫刻をし、欄干には青銅、タイルで装飾、六角形の唐草模様をあしらった豪華な青銅の電燈を要所に取り付け、夜間は明るく実に見事で本を持って読みに来る若者の姿が見られた」とある。残念ながら、青銅の電燈部分は、戦争中にすべて供出されてしまったそうだ。

 この旭橋から先の東川沿いは、かつての所沢一の歓楽街。「浦町」といわれた一帯には、戦前までは料理屋や演芸場が建ち並び、芸者の行き交う粋な街だったという。戦後は一時期、赤線(もしくは青線)だったという話もあり、米兵や基地で働く男たちを慰めていたともいわれる。そう言われれば、どことなしに隠微な残り香を漂わせる。「有楽町」(うらまち)という町名に、その名残がある。
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 旭橋から川沿いに進み、鳥居橋を渡ると横宿通りに出る。この辺りで川幅は一気に狭くなる。
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 川を背にして少し進むと、右手に「港屋」という質屋の蔵が、白壁も美しく立っている(26)。実は、かつては所沢も、川越に負けない蔵の街で、こうした蔵が随所で見られた。むしろ今では「タワーマンションの街」になってしまったが、こうした歴史遺産を活用した街づくりはできなかったものかという思いもよぎるが、今となっては後の祭りだ。
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 港屋の角を右に折れると、一気に場末感が濃くなってくる。突き当たりを左に曲がると、寂しげなネオンサインが連なる盃横丁だ(27)。うらぶれた横丁の向こうに、超近代的なタワーマンションが天を突く姿は、見事なコントラストをなしていて、ある意味、一番今の所沢らしい風景かもしれない。
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 盃横丁を抜けたら、表通りを右へ。信号を超えた床屋の先に、古い町屋が見えてくる(28)。ここは、元は所沢を代表する綿糸商・秋田家という商家(屋号は井筒屋)で、最近では「井筒屋町造商店」として、市街地活性化の拠点として活動していた(現在は場所を移転し、野老澤町造商店として活動)。
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 信号まで戻って左折した小道を秋田新道と言う。先述した錦糸商・秋田家が明治43年(1910年)に開いたことからそう呼ばれている。そこにかかる小さな橋も、秋田家にちなんで井筒橋と名付けられた。この秋田新道には、筆者が所沢に越してきた1980年代はじめ頃、古びた旅館と小さなパチンコ屋(すでに廃業していた)、そして、確か小鳥屋があった。この通りに来るたび、ひなびた温泉街に迷い込んだような錯覚を感じたことを憶えている。
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 その井筒橋を渡った先の十字路に、コロッケが有名な荒幡肉店がある(29)。昭和7年創業という店は、本当に昔ながらの肉屋で、総菜が充実している。ここのコロッケは、昔からこの辺りの中高生のおやつとして親しまれ、筆者も高校時代、下校途中でよくお世話になった。
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 荒幡肉店を左折して、ひとつ目の角を左へ。再び川沿いに戻ってくると、唯一残った遊郭の跡、三好亭が立っている(30)。典型的な木造妓楼建築で、戸袋や窓枠のデザインなど、細部の意匠が凝っていて、往年の栄華を感じさせる。川を従えたその姿を眺めていると、今にも三味線の音でも聞こえてきそうだ。
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 川を背に来た道を戻り、先ほどの角を左手に行くと、薬王寺の山門が右手に見える(31)。
 南北朝時代、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐の呼びかけに応え挙兵した新田義貞の子、新田義宗が開基と伝えられ、その最期の地であったともいわれている。小手指ヶ原古戦場しかり、所沢には新田義貞ゆかりの地が多い。
 境内には、相当の樹齢があろうと見られる古木が立ち並び、傍らのブランコがいかにも田舎寺風で、住民との距離が近い感じがいい。
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 薬王寺を出てさらに進み、最初の角を左へ曲がると、堂々とした木壁の向こうに白壁の蔵が連なる道に出る。ここは醤油の醸造元、深井醤油だ(32)。創業は「安政の大獄」の2年前、安政3年(1856年)というから、老舗中の老舗。なるほど、この一帯だけ何か時が止まったように感じられるわけだ。
 その先の直売所では、醤油のほかにも名物の「たまり漬」や花林糖なども販売している。
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■思い出で綴る故郷・所沢散歩

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2008-08-18

東川源流を辿る旅③-川端橋~東新井庚申塔

牛沼地区

 弘法橋から先は、右に畑、左に東川を見ながら、遊歩道を進む。よく晴れた日には、空の広さが気持ちのいい道のりだ。

 しばらく進むと、東小学校の前に、人ひとり通れるほどしかない小さな川端橋に出る()。この橋のたもとにも、両岸に川辺へ降りられる階段が設けてあり、水草が植えてある。この辺りでは毎年7月下旬、新河岸川流域川づくり連絡会主催の川まつりも行われていて、その際の観察では、オイカワやモツゴ、ヨシノボリ、シズエビなどが見つかるそうだ。
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 国道463号線の牛沼交差点から来る新しい道を渡り、さらに川沿いを進む。長栄橋のたもとで右に曲がり、すぐの突き当たりを左へ。この辺りから、右手の畑の向こうに大きな鎮守の森が見えてくる。神明神社の参道を右に曲がった先が「牛沼市民の森」だ()。傾斜地にクヌギ、コナラ、シラカシなどが生い茂り、脇には竹林もある。うっそうとした林に、夏でも涼しげな風が抜ける。参道をさらに進んで階段を上ると、急に視界が開けて明るくなり、神明神社の境内に出る。まさに、鎮守の森だ。森の手前には、火の見櫓も残されている。
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 参道を戻って右に曲がり、最初の角を左へ曲がると、再び東川へ。中橋から上流は、ちょうど工事の真っ最中()。しばらくは仮設の暗きょとなり、水面とはおさらばだ。少し進むと、防音壁で囲まれた工事の中心部があり、立て看板や掲示により工事の詳しい説明がある。要するに、治水対策のために、川の下に土管を通して、もうひとつの〝川〟を作ってしまおうというものらしい。工事の詳しいレポートは、別掲の大成建設のウェブサイトに詳しい。
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 仮設の暗きょがとぎれると、加美橋に出る()。この辺りからは、護岸壁にもつたで覆われ、川岸の緑が一層濃くなってくる。ふと橋のたもとを見ると、亀と鯉が仲良く日向ぼっこしていた。
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 加美橋を渡った突き当たりを右へ少し行くと、鶏舎の脇に馬がつながれているのが見えた()。道の反対側が店になっていて、地鶏卵や烏骨鶏の卵などを売っているそうだ。
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 さらに上流方向へと進むと、前方から「わっしょい、わっしょい」と元気のいい子ども御輿に出会った()。先導する男性に聞くと、牛沼地区の子供会のお祭りだとのこと。川沿いを中心に練り歩き、長栄寺まで行くのだとか。うまく息が合わずに、御輿が斜めになっていたりするのが微笑ましい。
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 その次に現れる小さな橋、境橋のたもとには、「東新井庚申塔」と言うかなり年季の入った小さな石仏がある()。

■大成建設ウェブサイト コラム「立ち話」
・「東川」地下河川工事は目立たずひっそりと
・曲線が多く川幅の狭い「東川」に地下河川築造
・所沢市「東川」の水害対策地下に新たな河川を整備

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2008-08-14

東川源流を辿る旅②-東所沢電車区~弘法橋

松郷地区

 オリンピック道路を松井公民館前の信号で左折したら、最初の十字路を左へ。急な階段を息せき切って登ると、住宅街の一角に出る。目の前の土手の上が見えるところまで進むと、この土手の上が大きな車両基地になっているのがわかる。正式には東所沢電車区という()。これだけの数の電車が横並びしているのは、なかなかの壮観だ。
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 階段を下り、先ほどの十字路を突っ切ると、再び東川沿いに出る。ここからは、所沢市街を抜けるまで、徒歩か自転車であれば、完全に川沿いに進むことができる。

 川沿いに進んで、最初に右折できる道が稲荷橋()。この橋を渡って突き当たりを右へ進むと、柳瀬歴史民俗資料館がある。
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 稲荷橋を渡らずに、右手に川を見ながら進むと、急に視界が開け、日比田橋に出る()。橋の下にはカルガモの親子が、のんびりと泳ぐ姿が見えた。日比田橋の向こうに広がる畑では、「日比田調整池建設予定地」の看板も。
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 日比田橋から大きなマンションの脇を進むと、川沿いの遊歩道で何やら作業をしている一群があった。作業中の方に話を聞くと、この辺りの住宅街、東所沢二丁目自治会の有志、「花いっぱいの会」の皆さんだとのこと。市の「花と緑のオアシスづくり事業」の受託事業として、毎月第1、第3土曜日に除草などの作業(冬期は休止)をするとともに、このスペースに季節の花を植えているという()。この時は彼岸花を植えたばかりだったので、晩夏から初秋にかけて、きっと赤く可憐な花が彩ることだろう。
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 また、この辺りの遊歩道からは、所々川岸に降りられるよう階段が設けられたスペースがある。
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 東所沢駅前から来た道を新日比田橋端で横断。さらに進むと、松郷工業橋に出る()。その名の通り、対岸には中小の工場や倉庫などが立ち並んでいる。
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 少し進むと、急に道幅が狭くなり、左手に所沢浄化センターという浄水場が見えてくる。その中ほどからは、ごうごうと処理済みの下水が、東川に流されている()。1日平均5万8330m3というからかなりの水量だ。なるほど、この放水口より上流は急に川の水量が減る。
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 松郷橋の信号を過ぎ、いずれ県道126号線(所沢堀兼狭山線)につながるであろう作りかけの道を渡る。この辺りから、所沢の名物でもある桜並木が川沿いに並びはじめる。そして、コンビニのある弘法橋の信号を右折して、橋を渡ると、上流に向かって川を左手に見る川岸に、遊歩道が始まる。岸も階段状に整備され、子どもを水遊びさせている親子ののどかな風景も見られる()。
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 弘法橋を渡って真っ直ぐ進むと、その先には松郷庵甚五郎がある。昔から所沢市民に信頼されてきた味はいまも変わらない。そばも旨いが、うどんに定評がある。
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2008-08-12

東川源流を辿る旅①-柳瀬川合流点~柳瀬公民館

滝の城址地区

 東川は、荒川の支流のまた支流、わずか11.46kmの極短の川だが、所沢で生活するものにとって、何かと縁が深い川だ。
 その終わりは柳瀬川に注ぐが、源流を辿る旅も、そこから始まる()。
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 東川が流れ込む地点から、柳瀬川の上下流数㎞は、最近、アユの遡上が見られ、休日ともなると釣り人の姿が濃くなっている。

 合流点から関越道を上流にくぐったほとりには、滝の城跡公園が広がる。テニス場や野球場を備えた運動公園である反面、その名前の由来である滝の城跡を背後に控えた歴史的名勝ともなっている()。
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 この滝の城は、もともとは戦国時代に山内上杉氏の属将・大石氏によって築城され、のちに小田原を本拠とした北条氏康の次男・氏照によって、八王子の滝山城の支城とされたという。いまでも、その城名の由来である滝跡が段丘に残されているが、滝打つほどの水量はいまはない。
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 滝の城跡本丸跡。いまは城山神社となっている。

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 城名の由来である滝跡。枯れ沢だが、わずかに湧き水が流れる。


 また1975年、滝の城跡本丸南側の崖からは、大雨で崩れた斜面から、7世紀頃のものとされる黄穴墓群が9基、人骨や須恵器、金環(銅線の輪っかに金メッキを施した古代のイヤリング)などとともに発見されている。いまだ未発掘の部分も多く、相当数の黄穴墓がいま眠っているとみられている。
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 滝の城跡本丸南壁から発掘された金環。


 柳瀬川への合流地点からは川沿いに進めないので、いったん清柳橋に戻り、北上して、塩野商店の交差点で、もう一度川岸に戻るように旧浦所街道を東へ進む。城下橋手前で細い道を右折すると、再び川岸に出る。ここからは、しばし高い護岸が続く()。
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 川岸の細い道をさらに道なりに進み、突き当たりを左へ。関越道の下をくぐると、左手に再び東川が見える()。
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 さらに進み、隣接した柳瀬小の信号で、オリンピック道路を左折。次の信号手前を左折すると、柳瀬公民館第2駐車場に突き当たる。その角をまた左折すると、柳瀬小につながるニコニコ橋に出る()。
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 ニコニコ橋から下流方向を臨む


 ニコニコ橋から逆戻りして、突き当たりまで来ると、左手に柳瀬公民館の立派な建物に出会う。ここは図書館の分館や体育館も併設した総合コミュニティ施設となっている()。
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 その柳瀬公民館の真ん前、ふと見ると、「城第二号取水ポンプ所」と書かれた古びた門柱がある。
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 ちょうど点検に訪れた所沢市水道局の職員さんに聞くと、ここはその名の通り、水をくみ上げる井戸だという。ただし、ここ自体は非常用の水源とされ、平常時は使われていないそうだ。しかし、渇水時や断水路などは、ここから給水車などで地域に水を供給するのだと言う。職員さんによると、同様の取水ポンプ所がほかに、市内に40か所ほどあるといい、多くが常用の水道水としても使われているとも言う。所沢の水道水は、半分が地下水というのもうなずける。

 柳瀬公民館入口からオリンピック道路を、もと来た方向に右折。すぐの信号を左折して、源流を辿る旅は続く。

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