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2008-08-03

太鼓、よさこい、夜も更けて-ぷちろーど商店街七夕祭

 毎年、暑さも本格化するこの時期、七夕飾りが新所沢の一角をささやかに彩る。緑町4丁目、プラザシティけやき通り団地脇の「ぷちろーど商店街」。夜ともなれば季節の風情を漂わせる。
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 そんな「ぷちろーど商店街七夕祭」が今年もやって来た。毎年7月20日前後の休日に開催。飾り付けは、その数日前より始まる。

 ぷちろーど商店街は、わずか150mにも満たない小さな通りに、飲み屋を中心に理容室や歯科など、20店舗ほどがひしめく。七夕祭は、そんな小さな小さな街のお祭りではあるが、侮るなかれ、毎年数千人の人手で賑わう。
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 正午、早稲田ちんどん研究会の賑やかしで幕が開けると、待ってましたとばかり、新聞折り込みで配られた無料お楽しみ券を持った子どもたちが、一斉に金魚すくいに群がる。
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 大人たちは生ビールに焼き鳥にと、各店がこの日のために特別に用意した屋台に吸い寄せられていく。筆者も、馴染みのブロックヘッズでチジミなどをご馳走になる。普段、深夜の飲み助を慰めるこの店も、今日ばかりは昼間から営業。知った顔もちらほらと現れ、お天道様の下でちょっとだけばつが悪そうに呑んでいる。

 普段は持ち込みなどの非礼は当然御法度だが、この日ばかりは無礼講、あっちの屋台、こっちの店とひやかしては、好きなものを買って来る。
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 そう言えば、こういった地域のお祭りといえば、お客は子どもとその母親ばかりというのが常だが、飲み屋の多い商店街ゆえか、このお祭は大人の男も多いのが面白い。最近、店ではなかなか見かけなくなった顔などもちらほら。久々の再会に、また酒が進む。

 いまは川崎に移ったという知り合い夫婦も、今日ばかりはそれぞれの実家に里帰り。「このお祭りって、俺が小学生くらいからやってるよ。その頃はさあ・・・」と、旦那の思いで話にも花が咲く。立派に「ふる里の祭」になっているではないか。

 そうこうしてるうちに、威勢のいい太鼓の音が聞こえてくる。和太鼓サークル・堤桜の演奏だ。5人のチームは女性ばかりだが、なかなか小気味よい太鼓を聴かせてくれる。

 続いて、ところざわ武蔵瀧嵐ジュニア韋駄天のよさこい。ところざわ武蔵瀧嵐は、1999年結成のよさこい鳴子踊りのチームで、手作りの曲、振り付けで、総勢60人が全国各地のよさこいイベントで活躍している。ジュニア韋駄天は、小学生を中心にしたジュニアチームというわけだ。真剣な表情で、一心不乱に踊る姿は、なかなか心を打つものがある。
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 ちょっと昼飯を食べるだけのつもりが、結局ぷちろーど商店街を出たのは日付が変わろうかという頃。ついついお祭りの雰囲気に流されてしまった。しかし、それだけ楽しませてくれる、〝ちゃんとした〟お祭りだった。

 来年の開催日はまだ未定だそうだが、ぷちろーど商店街会長の米沢文男さんによれば、来年は1か月前からミニ七夕飾りを始め、各店で用意した短冊にお客に願い事を書いてもらい、飾っていくとのこと。さてさて、どんな願い事が集まるやら。



■インタビュー ぷちろーど商店街 米沢文男会長
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 この商店街の一角に炭火やきとり・ぶんぶくを開いて33年。ぷちろーど商店街の創設者で、現在も会長の米沢文男さんに話を聞いた。

--お祭りはどんなきっかけで始められたんですか

 近所の商店仲間と「所沢には所沢祭があるけど、新所沢にはお祭りがないねぇ」などと話していたのがきっかけで、それじゃ何かやってみようと、七夕飾りを立てたのが始まり。それが店を始めて6~7年くらいの頃ですから、もう25年以上前のことですか。
 そんなこんなで、その後に商店街を立ち上げて、ぷちろーど商店街のお祭りとしては今年で23回目。毎年50~60万円の予算がかかりますが、お陰様で所沢市の方から30%ほど支援を頂けるようになって、何とか続けてます。
 七夕飾りの竹も、いまは群馬の方の業者さんが持ってきてくれますが、最初の頃はそういうことも知らなかったので、近くの農家に分けてもらって自分たちで運んで、炎天下に2人倒れちゃったりしましたよ(笑)。
 いまは七夕だけですが、昔は春の運動会、冬のクリスマスと、年に3回もお祭りをやっていたんですよ。運動会では、あめ玉探しをやったり、専門の人にポニーを連れてきてもらって子どもたちを乗せたりと、けっこう盛り上がってました。


--太鼓によさこい、ちんどん屋と、仕掛けも色々ですね

 ここいらは、鎮守様があるわけでもなく、お囃子がありませんからね。やっぱり鳴り物がないと寂しいって言うんで、5年くらい前から早稲田の学生にちんどん屋を頼んでいます。彼らも楽しみにしてくれて、「ずっとやりたい」って言ってくれています。
 よさこいも今年で3回目。太鼓も今年で3回目かな、もともとお客さんで来てくれていて、「やりたい」って言ってくれたのがきっかけでした。


--どんな時、「やってよかった」と思いますか

 やっぱりね、子どもたちにふる里の思い出をと思ってやって来ましたから、そういう子たちが大きくなって、思い出してもらえるのが一番嬉しいですね。
 最近では皆さん楽しみにしてくれていて、「今年はいつ?何をやるの?」なんて聞かれることも多いですね。それから、商店街でも「年にもう1回、何かやりたい」なんて人も出てくるくらいです。


 30年の間に、商店街の顔ぶれもだいぶ様変わりしたと言う。でも、その頃の子どもたちが大人になり、またその子どもを連れて遊びに来はじめる。移住者の街、新所沢にも、少しずつだが、世代を超える思い出が紡がれはじめている。
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2008-07-25

鉄瓶横町-飛行機見物がレジャーだった頃

 航空公園南側の手押し信号、熊野神社東の信号から浦所街道(国道463号線)を渡り、旭町交差点を抜ける道は、高校時代の筆者の通学路であった。
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 千歳橋で東川を渡り、古い長屋門の前を通り過ぎ、大きな農家が続く坂を登ると、すでに鉄筋コンクリート化されていた昌平寺の前に出る。堂々たる長屋門といい、東川沿いの風情といい、歴史が折り重なったようなこの道が、私は好きだった。

 その長屋門のあるお宅が、10年も前から能面美術館となっていたのも知らなかったが、この道がその昔「鉄瓶横町」と呼ばれていたなどとは、もっと知らなかった。
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 その話は、能面美術館館長で能面作家の福山元誠氏からうかがった。福山氏によると、現在の航空公園や米軍通信基地が「所沢飛行場」と呼ばれていた頃、飛行演習の日ともなれば、この道は所沢駅から飛行場へ向かう人々で賑わったという。熊野神社東の信号あたりに教育隊正門があったからだ。そんな飛行機見物客に、長屋門宅の家人が鉄瓶でお茶を沸かし振る舞ったのが、そのいわれだそうだ。

 日本初の飛行場として所沢飛行場が開設されたのが1911年(明治44年)、開設と同時にアンリーファルマン機による最初の飛行が行われているので、長屋門宅の家人が鉄瓶でお茶を沸かし振る舞ったのも、この頃のことであろう。まだ飛行機そのものが珍しかった時代ゆえ、飛行機見物が物見遊山、つまりひとつのレジャーとして成立していたのだろう。

 『所沢陸軍飛行場史』(小島敬司著 所沢図書館所蔵)には、こんな記述がある。

町の人人は勿論、まだ暗いうち遠くから提灯を持って飛行演習を見物にくる人で賑わい、見物人を目当てに茶店も出、山田呉服店は紅白幕を張った桟敷に得意客を招待した。臨時軍用気球研究会(※所沢飛行場に試験場があった)でも気象観測所の屋上に旗を立てて、「演習なし」(白)、「準備中」(赤白)、「飛行」(赤)を知らせた

 また、サイト「所沢飛行場物語」にも、以下の記述がある。このサイトには、見物の様子を描いた絵画や飛行機拝観券も掲載されている。

所沢飛行場ができ、飛行機や飛行船が飛びはじめると、飛行場には連日多くの見物人がやってくる様になりました。近在の人はもちろん、なかには、はるばる東京から夜通し歩いて来る人もいました。見物人のために食べ物屋やみやげ物を売る店も並び、桟敷席をつくり、一人10銭で見物させても、満員のお客さんでにぎわったそうです

 同じく「所沢飛行場物語」のサイトにには、「所沢飛行場開設時の飛行訓練の様子を載せた新聞記事」が紹介されている。

見物人は汽車路より畑より道路より馳せ集まる。東京より来りて見物せんと欲するものは、前日午後所沢の前駅東村山迄来りて1泊し、朝5時迄に所沢に来るを良策とす。所沢の宿舎は殆ど満員なれば、所沢に泊らんとすれば普通の民家に頼むべし

 前日に東村山まで来て一泊とは、いやはや立派なレジャーである。当時、生糸や織物で栄えた所沢に多数あったはずの宿屋が満員だったとは、どれだけの人出だったことか。鉄瓶横町が見物客で賑わったのもうなずける。

 時代は下って、前年に日中戦争も始まっていた1938年(昭和13年)、さすがに飛行機見物も下火になったであろう頃、今度は鉄瓶横町に軍靴の音が響くようになる。鉄瓶横町から旭町交差点をわたった先の一方通行の踏切のあたりに、飛行場への通勤駅として、すでに1915年(大正4年)には営業開始していた武蔵野鉄道(現西武池袋線)に旧東所沢駅(当初は松井駅。現在の武蔵野線東所沢駅とは別)が開業したからだ。
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 観光の道から、軍靴の道へ。いまは抜け道として、すれ違いもスレスレにクルマが行き交うこの道には、やはり歴史が折り重なっていた。

■思い出で綴る故郷・所沢散歩

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2008-07-11

そっちは取り締まりませんから-駐禁天国と地獄

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上の写真は、新所沢駅西口からロータリーを南プラザの角で曲がった先、中砂公園十字路を、西友駐車場側から見た写真だ。左手にうなぎ新妻が見える。
今回、この十字路に、ドライバーにとって天国と地獄を分ける見えない境界線があるという噂を聞いた。

証言の内容はこうだ。
「いや、この間のことなんだけどね、ちょっと近所に用事があって、中砂公園の脇(※写真左手のフェンス沿い)にクルマを止めておいたんだよ。

それで戻ってきたら、ちょうど中砂公園十字路のところに駐車違反監視員がいてさ、泡食ってクルマに戻ろうとしたわけ、『あーすいませーん、いまどかしまーす』なんつってね。

そしたら何て言ったと思う?
『だいじょぶですよ。そっちはやりませんから』だって。

監視員に聞いたわけじゃないけど、どうもあの辺で重点地区っての?その境があるらしいんだよね」

小泉構造改革以来の民間委託ばやりで、昨今は駐禁取り締まりまで民間業者に委託する始末。そのお陰で、取り締まりがきめ細かになって泣いたドライバーも多いはずだ。
うーむ。ここはひとつ、調べてみる価値はありそうだ。

さっそく、検索サイトで調べてみると、あったあった。所沢警察署「駐車監視員活動ガイドライン」なるものが。ここにしっかりと、図解入りで最重点地域が出ているではないか。なかなか警察も親切だな。

むむ!しかし、その中の「新所沢駅西口周辺」の図を見ていただきたい。
どうみても、これは新所北側の踏切を渡る道、すなわち所沢川越線までが最重点地区に入っているように見える。中砂公園十字路の先まで、しっかりと最重点地域に含まれているではないか!
むむむ。こりはいったいどういうことか。ガセネタをつかまされたか?

手元の所沢市の地図(昭文社2008年2版4刷)で確認してみる。

やや!なんと、緑町1丁目の北限は、線路脇自転車置き場から発して、そば雅庵の前を通り、中砂公園十字路を経由して、所沢狭山線をセブンイレブン&香港屋台麺の手押し信号を突っ切るというライン(※下記図中の点線)で引かれているではないか!

そのラインを北側、つまり所沢川越線側に超えると、そこはもう、緑町4丁目だったのだ。

つまり、「ガイドライン」図中にある「緑町1丁目」「」緑町2丁目」の文字が正しく、図自体はちょっと欲張ってしまったというわけだ。噂の主の証言通り、やはり最重点地区は中砂公園十字路までと解釈するのが、どうやら正しいようだ。

この調査の結果を図にまとめると、以下のようになる。
赤いエリアが最重点地区、青いエリアが駐車天国というわけだ。
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やはり、証言は本物だったようだ。
しかし、ドライバー諸君。駐禁はいかんよ。

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